京あられのルーツをたずねて
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京都盆地の西北にそびえる愛宕山(924m)は、東の比叡山(848m) と並んで、京のシンボルのひとつです。 京の人々は、愛宕の峰に雲がかかると、「雨が近い」といい、雪を見れば、 「お山が白い、今日は寒おっせ」と愛宕山を仰いで、その日の天候を占って きました。また、山頂の愛宕神社は、「火難除け」の神として知られています。 伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕さんには、月詣り。 といわれてきましたが、毎年8月1日午前0時に行われる「通夜祭」に参詣で すると、千日分の功徳があるというので、「千日詣」と呼ばれています。前日 の夕方から参詣する人々でにぎわいますが、清滝からの約5キロのけわしい 山道は、気軽に月詣りとはいかないので、「千日詣」が生まれたという説もあ ります。 |
| 弘源寺 | |
| 千日詣をすると、火除けの守札と、樒(しきび)の小枝が授与され、これを「カマド」 の上や、門前にさしておくと、火災から免かれるという習わしがあります。 樒はもともと、仏前のものですが、神枝とされるのは、神仏習合時代の名残り でしょう。 気象条件に左右されやすく、火を使う私たちの業界です。先輩たちは、朝に夕に、このお山を仰ぎ、無事を念じてきました。 愛宕山からの流れのうち、梨ノ木谷と大杉谷の流れは、合して堂承川(地元では堂尻川という)となって、清滝川に合流。 清滝川は落合で保津川に入ります。 大杉谷流れの源流近くに、高さ10mの「空也の滝」があります。その名の通り、空也上人(903〜72)修行の場と伝えられ、 愛宕五山のひとつ、月輪寺には、空也の立像(重文)があります。古くから修験者が集まりくる行場であって、空也も参篭した 1人でした。空也は、世間大衆と結びついた念仏教化として知られ、後に六波羅蜜寺(京都市東山区)を建立しています。 愛宕五山とは、中国の仏教の霊場、五台山にならったものです。五台山の五峰に対し、朝日岳、大鷲峰、高尾山、竜上山、 加魔蔵(かまくら)山、を配し、五寺には、神護寺、白雲寺、伝法寺、日輪寺、月輪寺をあてました。 江戸時代、この滝で篭り行をしていた1人の僧がいました。嵯峨天竜寺の塔頭、弘源寺に身をよせていた涌蓮(ようれん) 上人(1715〜74)でした。 涌蓮は、里人が差上げた餅を切り、「あられ」を造って里人に与え、自らも好物だったと伝えられています。空也の滝の修行中、 涌蓮の体力を支えたのは、自らが造った「あられ」でした。こうしたことから、私達の業界では、涌蓮にそのルーツのひとつを求 めているのです。 寛政2年(1790)刊行の「近世畸人伝」は、つぎのように記しています。 僧涌蓮は、伊勢の人。真宗高田派の僧で、江戸院家地(いんげち)の住職であったが、高僧伝(知徳がすぐれた僧の伝記)を読 んで感ずるところがあった。 病気のためという一書を残し、草衣に改め、そっと京へ登った。生島(いくしま)という人の物見の亭に仮住居していたが、その後 は、嵯峨のあちこちに住んでいた。生涯、一物のたくわえず、明け暮れ、念仏をする間に、歌を読んでいたのに、歌書は一卷も なかった。お世辞をいうこともなく、気のむくままに暮らしていたが、かえって飾り気がないことは、人のおよばぬ所であった。 また、入京した頃、冷泉(れいぜい)家について和歌を学びましたが、その理由はなく、気が進まないと、やめています。 二尊院の坊をかりていた浮木法師が、あやまって出火した時、涌蓮は、かけつけて、 かかるとき、常の心のうごかぬを 終りみだれぬ ためしにせよ と詠みました。後年、冷泉為村は涌蓮をたずねるが、その頃、涌蓮と為村と間には歌のやりとりがあった。安永3年(1774) 5月28日、同じ日に2人は世を去った。(畸人伝の著者、伴高蹊は、涌蓮と面識がありました)。 <京都米菓工業組合50周年記念誌より> |
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